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 【2】  051〜
メインページで過去に掲載させていただいたお墓です
(撮影:トモナリWEB店長 ・・・興味のある方はお便りくださいませ)
画像を使用されたい方も遠慮なくお申し付けください(紛失してしまったものも有)


 
 

〜2014.11.1
中国のお墓084
麻浩崖墓
(漢)

【四川省楽山市】

四川にて漢〜南北朝期に用いられた横穴式墓室。
楽山崖墓の数は3万基とも5万基とも。
その中で最も集中して現存するものが
凌雲山にあるこの「麻浩崖墓」である。
一族の墓が上下左右の横穴に置かれ、、
蜂の巣とも呼ばれている。



【付録画像@】 崖墓内石室
麻浩一号崖墓は奥行が30m近くもある。
早期に盗掘されてしまっていたが、
残された文物は併設されている博物館に
展示されている。



【付録画像A】 荊軻刺秦(王)石刻
崖墓入口付近には多くの石刻芸術がみられる。
画像…侍臣・秦王政・荊軻・衛士・舞陽(踊り子)が描かれ、
「荊軻刺秦王」場面の善悪を物語っている。

すぐ傍には「西王母賜薬図」も刻まれている。
この図は漢代の人々が不老不死の薬を求めて
(信じて)いたことから、多くの崖墓にて同石刻を
見ることが出来る。


【付録画像B】 凌雲山
麻浩河北岸(右側)の山が凌雲山。
崖墓はこの辺りに密集、点在している。
凌雲山の向こう側には皆さんご存知の
「楽山大仏」があります。
次回は他の崖墓と共にお伝えします!?


   

〜2014.12.2
中国のお墓085
楽山崖墓
(漢)

【四川省楽山市】

前回に引き続き四川の崖墓を紹介。
楽山を流れる岷江一帯には多くの崖墓があり、
楽山崖墓と呼ばれる。前回の崖墓はその中の
一部分となる。多くは朽ちており、調査も道半ば。
周辺の山々に分け入り探してみるのも楽しい。



【付録画像@】 麻浩漁村
長江の支流、四川を代表する河川「岷江」。
麻浩崖墓(前回の崖墓)に近い漁村に
「田三哥」と呼ばれる漁師が住んでいる。
ここ数十年は船上生活をしているそうだ。
岷江での水難者を救出する為に。

場所によっては非常に急流な河川である為、
毎年のように水難事故が起きている。
本名は「田質彬」といい、70歳を超えている。
事故の一報が入ると漁師や観光客を助けるべく
出動し、これまでに30人以上の命を救ってきた。

スーパーおじいちゃん(見た目はとても若い!)
に会いに訪れてみては?



【付録画像A】 楽山大仏
その漁村の上流にある世界遺産であり
世界最大の大仏「楽山大仏」。
像高は59.98mあり、頭高だけで14.7mもある。
奈良の大仏の約5倍となる。

画像左の崖に急な階段が作られていて、
観光客はそれを下り見学する。(別ルートも有)
健脚でも足がすくむ階段である。

足元から全体像はよく見えないので、
時間があれば船上から拝むことをおススメする。
※画像は船上からのもの。



【付録画像B】 天下奇碑
A画像の左下をご覧ください。
岩壁にある「嘉州凌雲寺大弥勒石像記」だ。
864字。8世紀後半に刻まれ、
北宋、明、民国期と幾度となく重刻されている。
訪れる機会があったら大仏だけではなく、
碑高6.6mのこの奇碑も是非みてみよう!


 

〜2015.1.1
中国のお墓086
八宝山人民公墓
(近現代)

【北京市石景山区】

書の題材に用いられる「墓誌」・・・
石碑鑑賞のひとつとして廻り始め、
ここ10数年は古墓巡りに明け暮れている。

今回の北京では近現代の墓巡りを多くしてきた。
今後暫くは、これらを紹介したい。
「このひと知ってる!」という人物も出てくるかと。
〜お付き合いいただけると幸いです〜



【付録画像@】 現代墓
セピア色の画像およびこの写真は最近の墓である。
中国では毎年900万人が亡くなり・・・
都市部での墓不足が90年代から問題となっている。
当然のことながら価格も高騰し、、、
普通墓で70万円〜、豪華墓や芸術墓などは120万円〜
実情は青天井で数千万という数値も耳にする。



【付録画像A】 近代墓
八宝山人民公墓には大きく「老区」と「新区」に
分かれており、ここは老四区と呼ばれる清末〜
民国期あたりに亡くなったひとが埋葬されている。
もっとも、この公墓は1950年8月1日創建なので、
別の場所から移されてきたものも多い。



【付録画像B】 西門
正式には南部の革命公墓からの通りが正門らしいが、
現状、この西門が正門の役割をしている。
無論のこと守衛がいる。
机が置かれ、座っている自分がそのひとだ。
墓園内にも警備員がグルグル廻っている。
素通りしようとすると「何しに来た?」と声を掛けられる。
でもまぁ、なんとかなるものである!

 
    
 

〜2014.8.2
中国のお墓081
殷墟甲六墓址
(BC1300〜1046頃)

【河南省安陽市】

『殷墟』・・・商代後期の都城所在地です。
1899年の清末、皇帝の秘書官であった王懿栄は
漢方薬に用いていた竜骨(化石)に、青銅器などに
刻まれている銘文に似た記号があるのに気付く…

八ヶ国連合軍北京入城期に王懿栄は自殺してしまうが、
劉顎や金石学の専門家などの研究を経て、、、
甲骨文の発見&殷墟の発掘に至る。

13基の王陵のほか、2000を超える殉葬坑や祭祀坑
があり、皇族墓のみならず庶民の墓も多い。


【付録画像@】甲骨堆積坑

殷墟周辺を歩くと、どこからともなく竜骨を持った人物が
現れる。彼らのモノはレプリカだが良く出来ている。
20年ほど前、始皇帝陵や兵馬俑坑付近を歩いていた
ときも同じように商売熱心な人たちが溢れていた。

これらの場面でこちらも本腰を入れ始めると、
民家や倉庫らしき建物に案内され…
更に興味を示すと奥に案内され、、、恐らく本物であろう
文物とご対面することが出来た。

庶民所有の文化財級文物は、まだ相当数あるようだ。
また、未発掘のものは星の数ほど。。。




【付録画像A】紡績路

殷墟は東西6q南北4q(←調査が進んでいる範囲)で、
エイ河の北岸南岸に分かれている。
観光客が訪れる「殷墟博物苑」があるのは南岸。
殷墟路を通り、殷都橋を渡り北側へ来ると、
テーマパーク施設「殷都文化城」がある。

が、訪れるひとが少なく2000年頃に廃墟となった。
画像Aは殷墟が世界遺産登録される前の2004年に
北岸を訪れたときのもの。少雨でも路が川のように
なってしまい身動きがとれない有様であった。



【付録画像B】新華書店

世界遺産登録(2006年7月)前の2000年頃から
大規模な区画整理が行われ街の風景は一変した。
安陽の新華書店も綺麗になった。

インターネットの無い時代、中国を旅する際に
この新華書店は大変貴重な施設であった。
地級、県級はもちろん、○○鎮などの郷級の町にも
大抵新華書店が置かれている。
バスターミナル等で地図が入手出来ない場合は
ここを訪れ、地図を探したり情報を収集していた。


※新華書店は全国で1万4千店ほど。

※2013年7月…それまで中国最古の文字とされてきた
甲骨文字よりも更に1500年ほど前のものとされる
文字が浙江省の遺跡で発見されている。
(発掘は2003年〜06年で発表は2013年)
長江文明のこちらは竜骨ではなく石斧に。。


   

〜2014.9.2
中国のお墓082
南唐二陵 欽陵
(937-943)

【江蘇省南京市牛首山】

鄭和の眠る墓から2qほど南に南唐二陵がある。
006にて二陵のうちのひとつ「順陵」を紹介した。
今回はもうひとつの「欽陵」という南唐初代皇帝の
李昇とその皇后が眠る墓である。
南唐=五代十国時代

この欽陵と順陵の発見は最近の出来事である。
1950年に夫子廟の市場にて骨董品を売る
不審な人物を警察が尋問したことから発見に至る。
盗掘品を売りさばいていたということだ。

その後、3ヶ月ほどかけて発掘調査が行われ、
文物640件余りが出土している。



【付録画像@】 出土した陶俑
陳列館では、南唐の概要から出土品展示など・・・
こじんまりとした館ではあるが勉強になる。




【付録画像A】 珍珠泉索道
処変わって…南京市街の別方向。
長城マニアの私は是非訪れてみたかった場所。



【付録画像B】 南京長城
それは・・・造っちゃった長城。。。
中国のスケールは物凄いものがありますね。

   

〜2014.10.5
中国のお墓083
金仲華墓
(1907-1968)

【上海市】

浙江省桐郷出身。新聞や雑誌の創刊編集など、
民国期から建国後にかけてメディア界で活躍した人物。
国際問題評論家としても知られている。

杭州之江大学卒業後、商務印書館に入社。
その後開明書店や生活書店にて雑誌編纂の職につく。
この頃から国際問題の研究に着手したようだ。
戦時中は抗戦雑誌系の編集をし、
中国民主革命同盟にも参加している。

建国後は上海市副市長などを経て、
全国人民代表大会代表に名を連ね、上海日報社長、
中国新聞社社長などを歴任している。

文革期に反革命分子とされ迫害を受けながら
1968年4月3日、失意のなか自殺。
1978年に名誉回復・・・
現在は宋慶齢陵園(万国公墓)内にて眠っている。



【付録画像@】 上海福州路
開明書店発行所のあったあたり。
1933年暮れから金仲華がここで働いていた。
福州路は書店街として古書店や文房四宝を扱う店舗が
軒を連ねていたが、最近は様変わりしつつある。
上海楊振華筆廠および楊振華書廊は健在だ。



【付録画像A】 新聞雑誌販売
リヤカーに積んでの…露天商。
地図を購入するのに一時期大変お世話になった。

 


〜2014.5.2
中国のお墓078
民間墓

今回は特定人物墓ではなく、一般人のお墓です。
中国ではもともと古代より土葬が主流であったが、
中華人民共和国成立後は国策として火葬を
推進するようになった。

どこの国も同じなのか、、、北京や上海などの
都市部の墓苑では・・・一区画あたりが年収を
超えてしまうなんて話もよく聞きます。

農村部ではまだ土葬文化も残っている。
また、最近では墓地確保の必要のない
「海洋葬」や「樹木葬」なども行われている。

また、チベット方面では「鳥葬」も残っている。
※2006年以降、観光客は見学禁止になっている。



【付録画像@】楹聯その一
河南省偃師郊外
裕福な家のものは墓碑が置かれている。(奥3基)




【付録画像A】
四川省成都郊外
波打つ・・・こんもりしたものが全てお墓です。



【付録画像B】
浙江省杭州の南山陵園
都市部の典型的な墓苑である。



【付録画像C】
福建省泉州の伊斯蘭教聖墓
イスラム聖墓最大級の墓苑。


   

〜2014.6.2
中国のお墓079
明定陵
(1563-1620)

【北京市昌平区】

明十三陵中、唯一発掘が完了している陵墓である。
長陵・昭陵と共に一般公開されている。
定陵は明朝十四代皇帝の墓。=万暦帝。

10歳のとき即位し、当初は宰相(張居正)の仁政により
国内は落ち着いていたが、張居正が死去後は・・・
身内の騒動や軍政腐敗などにより、、、
堕落した暗君となってしまった。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の朝鮮援助へ出費も
財政を悪化させた要因である。
しかしながら48年・・・
明代では最長の在位期間である。



【付録画像@】定陵地下宮殿

定陵は万暦年間に6年の歳月をかけて完成。
その後1956年から考古学チームにより発掘調査が
行われ・・・玄宮(地下宮殿)への入り口を発見。
玄宮内は幾つかの部屋に分かれていて、
高いところでは9m以上もの高さになるが、
柱は一本も無く、全て石をアーチ型に組んでいる。

その後・・・文化大革命期に副葬品の破壊盗難、
万暦帝や王妃の亡骸が焼却されたりした。




【付録画像A】CITS

別次元のもの・・・
北京市東城区にある「中国国際旅行社総社有限公司」
CITSの総本山。
「CITS JAPAN」は、前身の東方旅行社から
1992年にCITSグループの日本法人になった会社。




【付録画像B】

ちょうど10年前の北京駅。夜の11時23分。
20年前は駅前広場にバスが乗り入れていて、
周囲には1元〜5元で寝泊まりできる簡易宿泊所が
乱立していた。15年ほど前から整備が進み、
全てが取り壊されてしまった。


   

〜2014.7.1
中国のお墓080
劉湘墓
(1888-1938)

【四川省成都市】

四川大邑出身の軍人。
清光緒年間に四川省陸軍に入隊し、
四川統一を目指し徐々に頭角を表していく。

貴州軍の袁祖銘と手を組むが直ぐに対立、
国民党への傾斜を深めつつ、
親族の劉文輝と手を組むが、のちに対立。
国民党(蒋介石)に近づき四川省政府主席になる。
その後、蒋介石とも距離をおくこととなる。
昨日の友は今日の敵!?

日中戦争勃発後は四川省軍の指揮をとる。
1938年(民国27年)に急死(死因は不明)。

また、劉湘墓は劉備墓の傍に置かれているが、
劉備の子孫というわけではない。



【付録画像@】簿書碑(残碑)

劉湘墓から1qほど北西にある四川博物館。
ここに1966年出土の簿書碑(残碑)がある。
隷書にて当時の一家の牛や奴婢などの財産具合が
記録されている面白い碑=東漢碑だ。
更に…原碑上に達磨?ともみれる一人像が
刻まれてしまっている珍しい文物。




【付録画像A】文房四宝専門店

四川博物館の東側「送仙橋古玩市場」周辺には
書画用品専門店が軒を連ねる。
四川省内の竹紙を探してみたが、取扱いは無し。
99%は宣紙である。(画像は全て四尺単宣=全紙)
また、墨運堂の液体墨「玄宗」が沢山積まれていた。
超濃墨がよく売れるとのこと。
ちなみに値段は日本の定価より少し高め。


 
 

〜2014.2.2
中国のお墓075
唐寅墓≫
(1470-1523)

【江蘇省蘇州市】


字:伯虎、号:六如居士。
明代の比較的安定した時期に活躍した書画家。
祝允明・文徴明・徐禎卿と共に『呉中四才』。
沈周・文徴明・仇英と共に『明四家』と呼ばれる。
代表作に「山路松声図」や「江南農事図」などがある。

当初は丹陽横塘鎮(蘇州の西)にに埋葬されたが、
明嘉靖二十二年(1543)に現在の場所に移された。
動乱期を経て荒廃してしまったが、1955年に
大規模修復が行われ現在に至る。



【付録画像@】唐寅墓誌銘(画像は其の一)
唐寅墓誌銘の撰者は祝允明。書は王寵。
二人ともく蘇州出身でほぼ同年代に活躍した書家である。
   先輩:祝允明、後輩:王寵。


【付録画像A】唐寅故居付近
東洋のベニスと称される蘇州。
市内には運河が張り巡らされている。
北京⇔杭州間の京杭大運河もここを通っている。

唐寅は30代のときこの運河を利用し鎮江へ赴く。
その後揚州、廬山、黄州へと足を運び『赤壁図』を
残している。遠くは福建まで延べ9ヶ月ほど
各地を闊歩している。多くは船旅であったという。


【付録画像B】福建省仙游県
福建を訪れた唐寅は仙游の九鯉湖を訪れている。
風光明媚なこの地・・・
中国夢文化(祈夢文化【※】)発祥の地とされ、
多くの文人墨客が訪れている場所だ。
【※】同じく蘇州のひと「王献臣」の話が
有名なので調べてみてください。

で、仙游県へは行ったことがあるのですが
残念ながら県内九鯉湖へは未到達。。。
また、仙游は犬肉屋さんが他の地域よりも多い気が…
首なし犬が吊るしてあるので「ギョッ」としてしまう。

   

〜2014.3.2
中国のお墓076
潘天寿墓
(1897-1971)

【浙江省杭州市】


字:大頤、号:雷婆頭峰寿者
浙江寧海出身の近代書画家。
浙江第一師範学校卒業後、上海民国女子工校や
上海美術専門学校(上海美専)にて書画を教える。
その後上海美専の教授を経て杭州国立芸術院や
新華芸術専門学校などで教壇に立つ。

日中戦争〜文化大革命期の激動の時代のなか、
伝統的な中国画の在り方を模索し続けた。
花鳥画から山水画まで多くの作品を残している。
独特の運筆から生まれる強烈な線画は
荒々しさと粛然とした様が同居している。

墓は杭州西湖南の九曜山南麓にあり、
夫人と長男との合葬墓。
長さ40メートルの天閣詩亭が併設されている。



【付録画像@】潘天寿故居
1940年代建築で長らく住まいとしていた故居が
潘天寿紀念館として開放されている。(西湖の東)
小さいながらも作品の展示数は多く、
寝室やアトリエなども見ることが出来る。



【付録画像A】九曜山隧道
世界遺産の西湖南にある太子湾公園から
獣道を進み山越えして潘天寿墓へ向かいました。
周辺の玉皇山や青龍山、九曜山には呉越遺跡や
名所が点在している。

890mあるこの隧道は空調が完璧!
深呼吸が出来るほど綺麗な空間でした。(驚き!)
(交通量はそこそこあります)

隧道を出て西湖街道浄寺社区内に墓があります。


【付録画像A】潘天寿彫像
多くの文人との交流をもった潘天寿。
なかでも呉昌碩(1844-1927)とは
「忘年交」として絵画や篆刻について語り合ったという。
西湖孤山の西冷印社のすぐ近くにこの彫像がある。


 

〜2014.4.1
中国のお墓077
蘇小小墓
(5世紀後半)

【浙江省杭州市】


西冷印社のある孤山へ通ずる西冷橋。
そのたもとの慕才亭にこの「蘇小小墓」がある。
蘇小小は南朝斉の名妓であった。
その才能から多くのひとに慕われていたが、
若くして亡くなってしまった。

彼女が幇助していた書生が栄進して高官となり、、、
お礼に訪れたとき…彼女はこの世を去った後であった。
書生は西冷橋のたもとに小小の墓を建て、
その東屋を「慕才亭」と名付けた。

唐の詩人「李賀」の『蘇小小慕』をはじめ、白居易や
杜牧などが小小の人柄や人生を詩に残している。


蘇小小墓の慕才亭には6本柱があり、
柱全て(24面)に、篆隷行草の各書体を用いた
聯文が刻まれている。楹聯(えいれん)の集合体だ。




【付録画像@】楹聯その一

画像は浙江省杭州郊外の龍門古鎮にある天子堂。
ここでも三対の楹聯が掲げられている。
楹聯の「楹
とは天井と床の間にはった太い柱の意で、
対聯を門柱などに掲げたものを
楹聯と呼ぶ。

素通りされがちなこれらの作品が近年脚光を
浴びており、江南では古寺や庭園に掲げられている
楹聯を専門に研究し本にまとめる動きが出ている。

と、ここ龍門古鎮の住人の90%以上は孫姓である。
三国時代の孫権の末裔が多く暮らす村であり、
集落全体が観光地化されている。野良犬多数。




【付録画像A】楹聯その二

「中華民族の塊宝」と称される楹聯。
この手の対聯は仕様により「門対」「対子」「桃符」等の
呼び名があり、春節時期に門柱に掲げられる文句は
「春聯」、葬儀の際に送られるものは「挽聯」。
画像は陝西省韓城にある基督教会。




【付録画像A】楹聯その三


こちらは墓誌マニアは是非訪れてほしい・・・
河南省新安県鉄門の千唐誌齋。

ご旅行の際には是非・・・
扁額や楹聯も鑑賞してみてください!


 
 

〜2013.10.1
中国のお墓 072
永寧陵 南朝陳文帝陳セン墓≫
(522-566)

【江蘇省南京市】


南朝「陳」の二代目皇帝陳センのものとされる陵墓。
「天禄」、「麒麟」の各1基が現存する。
初代皇帝(武帝)の甥にあたり、武帝亡きあと帝位につく。
領土も縮小し情勢は厳しく国力は衰退していたが、
厳しさの中でも一時の平穏をもたらした名君であった。
在位7年で病死。その後はお家騒動等を経ながら
時代は「隋」へと変わっていく。

近年の大規模調査により、この周辺から
南朝期の大型墓が発見され、今年2013年1月には「文帝」の
陵墓であることが極めて高いとの報道がされている。。
※これまでは未確定要素が強かったらしい。
この大発見をうけて…この地にでは
『南朝石刻博物館』建設と『帝陵公園』整備が決まり、
数年以内にはオープンする見込みである。
※上記画像の原野風景は2003年のもの。


【付録画像@】白馬石刻芸術博物館
南京市内玄武湖東側の白馬公園内。
六朝期〜宋〜明〜清(殆どが明朝期)にかけての
100基以上の石刻が屋外展示されている。
石刻は江南中心に全国からのもの。
六朝石刻を極める前に全体像としての鑑賞には
もってこいの場所である。


【付録画像A】南京長江大橋(昼)
画像@で南京まで来ましたので・・・南京の橋を。
上段:自動車道 下段:鉄道 全長4589m(道路部)の橋梁。
8年の歳月をかけて1960年に完成。
大橋公園からエレベーターに乗り(有料)橋上部を
見学出来、橋の歩道に出ることが出来る。
年間自殺者数十人・・・とのことで夜間は少し怖い。


【付録画像B】南京長江大橋(夜)
画像Aで『夜は少し怖い』との記載をさせて
いただきましたところ・・・
「お前は夜に行ったことがあるのか?」
との連絡がございました。※匿名にて
90年代に夜歩いた際の写真があると思いましたが紛失。
スミマセン。この写真は2000年時のもの(車内から)。
※安徽省方面から南京市内へ向かう橋の上です。

   

〜2013.11.5
中国のお墓 073
秋瑾墓≫
(1875-1907)

【浙江省杭州市】


紹興のひと。出身は福建省厦門。
救国救民を謳い、反清革命運動を起こした
「革命詩人 秋瑾」の墓所である。
北京にて二児の母であったが、夫との関係が悪化…
家族と離れ日本に留学する。=1905年
孫文率いる中国同盟会に参加するも
清国の要請にて革命運動の取り締まりが強化され
翌年に帰国。その後、紹興を拠点とし
武装蜂起に向けて準備を進める。
が、計画途中にて各会党との連携がうまくいかず…
紹興に留まっていた秋瑾は清軍当局に
包囲され逮捕されてしまう。


【付録画像@】秋瑾烈士記念碑

紹興市中心部にある古軒亭口門付近。
(※明け方の風景。逆光でスミマセン。)
解放北路と府山横街の交わるココに記念碑があり、
その奥に秋瑾像が建てられている。

「大通学堂」にて清軍に捕らわれた秋瑾はその二日後、
この場所にて公開処刑(斬首)された。=1907年7月15日
杭州西湖湖畔に埋葬されたが、1909年に湖南省湘潭へ。
辛亥革命後の1912年に現在の場所に移された。
碑文は蔡元培撰写(=元北京大学学長)




【付録画像A】通遼汽車駅(バスターミナル)

※画像は秋瑾とは全く関係ございません。
ふと10年前(2003年秋)に私はどこに居たのかと思い・・・
調べてみましたら内モンゴル自治区の通遼にいました。
この地は建国後・・・1969年まで内蒙古自治区ジェリム盟、
その後吉林省ジェリム盟となり、
1979年に再び内蒙古自治区の管轄に、
1999年に現在の通遼市(地級市)に昇格した土地である。
10年前…モンゴル書道に興味を持っていた時期でした。


   

〜20143.12.7
中国のお墓074
東魏 孝静陵≫
(524-551)

【河北省磁県】


南北朝『東魏』(534-550)唯一の皇帝「元善見」の墓。
元善見は北魏孝文帝の曾孫にあたる。
陵園はほぼ正方形で東西・南北ともに約1300m。
封土は円丘形で高さ約25.3m、円周は約750m。
陵墓は天子塚とも呼ばれている。
墓台頂上には小さな祠が幾つか有り、
「関帝廟」も置かれている。

付近の磁県東南部は北朝期の古墓が点在しており、
確認されているものだけでも134座。
洛陽や西安郊外の陵墓群には及ばないものの、
墳墓マニアにはたまらない土地だ。
『蘭陵王碑』で知られる北斉高粛墓もこの地にある。


【付録画像@】孝静陵より南を望む
少し南へ行けば殷墟のある河南省安陽という位置。
北京から保定-石家荘-邯鄲(磁県)-安陽-鄭州への
国道107号沿い『黄金ルート』は数十秒に1台
バスが通るので移動にはとても便利です。



【付録画像A】縣界碑
国道から少し東へ移動し・・・
左(西)は磁県、右(東)は三国遺跡で有名な臨ショウ県。
畑の中をグルグルしていたら見つけたものです。
・・・特に古くも珍しくもない標です。


【付録画像B】小南海石窟中窟 「方法師鏤石板経記」
最後に…書に関連するものを。。。
これは東魏から北斉へ禅譲された550年
(東魏武定八年=北斉天保元年)、
「大齊天保元年」の記述から始まる経記碑である。
※刻経は560年
前述「孝静陵」のある河北省磁県の南にある河南省安陽。
その中心部から南西へ約25q行くと『霊泉寺石窟』がある。
その石窟群内の『小南海石窟』内の『中窟』のものである。
『霊泉寺石窟』本体と『小南海石窟』は5qほど離れている。

 
 

〜2013.7.1
中国のお墓069
鄭成功墓≫
(1624-1662)

【福建省泉州市南安】


平戸にて…当時海商であった「鄭芝龍」と
平戸藩士の娘「田川松」との間に生まれる。
名は「森」。
幼名は「福松」。 
6・7歳のころ大陸へ、
その後厦門や南京にて勉学に励む。

1644年、李自成の乱により『明』が滅び『順』が建国。
その後すぐに山海関からの
入関により『清』の時代となる。
各地で「反清復明」を掲げて清に抵抗する
勢力が生まれ『南明』が興る。

鄭森は隆武帝(南明二代目皇帝)に
気に入られ…以後、鄭成功と名乗り
北伐(反清)の陣頭指揮にあたる。
幾度かの敗北ののち、台湾へ渡り態勢を立て直そうと
するが志半ばでこの世を去った。
当初は台湾台南の塩洲里に埋葬されたが、
鄭氏政権終焉後に大陸に移された。




【付録画像@】鄭成功碑林
1962年(台湾鄭氏政権樹立300周年の年)、
福建省泉州南安市石井鎮に鄭成功紀念館が建てられた。
鄭成功墓からは車で15分ほどの場所である。
陵墓からの出土品などの陳列のほか、詩刻中心に
纏められた碑廊を有する鄭成功碑林がある。
郭沫若をはじめ、元平戸市長の油屋亮太郎さんほか
フランスやインドネシア、米国からの書も並ぶ。



【付録画像A】石
福建省泉州の南安や恵安周辺には石材関連の会社が
集中している。墓石・墓碑から各種彫刻品、建設資材など。
「○○家之墓」と刻まれた日本へ渡る石も多く見かけた。
工場からの粉塵が空を覆い・・・非常に非常に空気が悪い。
※画像は工場地帯からは離れた国道324号沿いの
石材露店が並ぶ場所。



【付録画像B】バス亭
福建省泉州市・・・市全体では800万人近い人口を有する
巨大地方都市である。移動は路線バスがとても便利だ。
どのバスに乗ると何処へ行けるのか・・・
行先表示板&地図との睨めっこ・・・至福のひと時である。

   

〜2013.8.2
中国のお墓070
珍妃墓≫
(1876-1900)

【河北省易県西陵鎮】


清西陵崇陵妃園寝に眠る光緒帝の妃。
(清西陵=北京から南西へ110q)
満州八旗の他他拉氏である彼女が姉妹で光緒帝の
妃となり、24歳のとき北京城内の井戸で亡くなる・・・
この悲運の生涯は各種演劇や映画、テレビドラマなどで
多く題材として取りあげられている。
日本では浅田次郎の小説「珍妃の井戸」が有名だ。




【付録画像@】珍妃の井戸
1900年夏・・・八ヶ国連合軍が北京入城・・・
8月14日、西太后と光緒帝は北京を脱出、西安へ。
同日、珍妃はこの井戸の中で亡くなる。その死には
いろいろと説があるようですが真相は分かりません。
翌年、井戸から遺体が引き揚げられ、北京城外の
恩済庄に埋葬される。その後1913年12月13日に
光緒帝の眠る清西陵に移された。
現在、その隣には「珍妃」の姉「瑾妃」の墓台もある。
※瑾妃は清西陵に埋葬された清皇族の最後の一人。
※溥儀墓は近くですが「清西陵寝陵区」ではない。
また、「こんな狭いところ(井戸)に人が入れるのか?」
との話をよく耳にしますが・・・
現在の井戸は民国期に重建されたものらしい。



【付録画像A】燕下都遺跡
清西陵より直線距離で15qほど東南へ行くと
戦国時代燕国の別都「燕下都」の遺跡(古城)がある。
燕の築いた長城の北西端にあたり、重要な地であった。
東西8キロ南北5キロという広大な遺跡内には
武陽台や張公台、望景台をはじめ多くの宮殿区跡が
残されている。(無論、朽ちてます!)
画像は宮殿区跡。幾つもの横穴は…「何かないかな?」
・・・という盗掘の痕である。足元には無数の陶片や
瓦当片が散らばっている。お宝だらけである!
ちなみに清西陵の時代よりも2000年前のもの。



【付録画像B】紫荊関鎮
今度は清西陵から北西へ直線で16キロほど進むと・・・
西漢期「上谷関」、東関期「五ゲン関」〜
金代には「金坡関」と称され、
現在、「紫荊関」と呼ばれる要所がある。
10年以上訪れていないが、最近は必要以上の『修復』が
施され・・・観光地化されたようである。
と、暗いこの画像は紫荊関鎮の1件宿に泊まった際・・・
寒くて眠れないので軍用のコートを購入しに訪れた店。
このときは24時間中20時間ほど停電で、
夕食も蝋燭の灯りが頼りであった。
※蛍光灯の明りに見える光はカメラのフラッシュ。
店内は・・・左下のおばちゃんがもっている蝋燭のみ。
   

〜2013.9.5
中国のお墓071
丁鶴年墓≫
(1335-1424)

【浙江省杭州市】


元末から明初に活躍した色目人の詩人である。
武昌出身。字は永庚。ムスリム。

標石には「元代回族大詩人丁鶴年墓亭」と刻まれている。
多くの詩を残している(丁鶴年集)。
回族医学にも精通していた彼は
1405年に北京菜市口に薬店「鶴年堂」を開設している。
世界的に有名な老舗北京同仁堂(1669年創業)よりも
200年以上の歴史がある。
「先に鶴年堂が出来て後に菜市口が出来た・・・」という
言葉が残されているくらいである。
丁鶴年は90歳のとき杭州にて没。


以下、上述のお墓とは全く関係の無い画像です

【付録画像@】バスは一日一度来る
遼代遺跡探索の為、内蒙古自治区を訪れた際のお話です。
巴林右旗にある11世紀創建の白塔(釈迦如来舎利塔)
や周辺の遼代陵墓群をみて、地元の招待所に宿泊。
宿があることが不思議なくらいの僻地である。
※200qほど北へ進むと外蒙古(モンゴル国)。

次の目的地の巴林左旗(林東)へは早朝の4時頃に
ここをバスが通過するので、それを捕まえないといけない。
乗り遅れるとまた次の日になってしまう。
翌朝、宿の主人も起きてくれて一緒にバスを待つ。
8月とはいえ肌寒くブルブルと震えながらであった。

画像は乗車して2時間ほど経過した5時40分頃の車内。
地方にてバスに乗ると毎回思うのだが、乗客は皆
前の席から詰めて座っていく。マナーというよりも
乗降しやすいからということらしい。



【付録画像A】幸福之路
その後、無舗装の山道を更に3時間ほど降りてくると
ようやく人工的なモノが見えてくる。「幸福之路蘇木」だ。
※「蘇木」とは行政単位の郷級で「鎮」に相当
この街で4〜5人が乗り降りし、暫しの休憩となる。

画像の通りがメインストリート。右の建物は
なんでも揃う「総合商店」である。
その後暫し走ると国道303号に合流。舗装された道を
猛スピードで東へと進み「林東」に到着する。

以上、ある日の移動の様子でした。(10年以上前)

    
 

〜2013.4.3
中国のお墓066
漢安帝陵≫
(94-125)

【河南省孟津県送庄郷三十里鋪村】


東漢第六代(106-125)皇帝劉コの陵墓(恭陵)。
東漢(後漢)成立と三国時代の中間期。
在位中は毎年のように各地で飢饉や反乱が起こり
安寧の世とはかけ離れた時代でした。
32歳のとき南巡中に客死。
・・・すみません。この時代は良く分かりません。



【付録画像@】秦函谷関


【付録画像A】漢函谷関

@秦函谷関 河南省霊宝市
A漢函谷関 河南省新安県

時代的には@Aの順。
秦函谷関は陝西省との境に近い霊宝市にあり、
漢函谷関
は漢安帝陵のある孟津県の西隣の
新安県にある。距離にして150qほど離れている。
西漢元鼎三年(前114年)に現新安県に移設された。

秦関は真新しくテーマパーク化されてしまったが、
一歩古道へ入ると険しくそして静まり返っている。
木陰から孟嘗君が出てきそうな気配すらある。
漢関は付近に古橋などもあり、
古跡マニアにはたまらない場所だ。

さて、『箱根の山は天下の険、函谷関もものならず・・・』
の函谷関はどちらのことでしょうか?



【付録画像B】 (ボウザン)
本題に戻り・・・
バス車内からの撮影でして不鮮明でスミマセン。
河南省洛陽の孟津県を中心とした
黄河南岸一帯の黄土丘陵地帯を「ボウ山」と呼ぶ。
道教聖地としても知られるこの地には、東(後)漢/曹魏/
西晋/北魏の10数基の皇帝陵墓があり、陪葬墓も
含めると1000基以上となる。
お墓ゴロゴロ・・・画像からもお分かりいただけるかと。
90年代から西安郊外の陵墓群と合わせ、制覇しようと
訪れてはいるのですが・・・難しいですね。



【付録画像C】青空
澄んだ青空は気持ちいい!
オリンピックイヤー2008年12月の北京飯店付近。

   

〜2013.5.3
中国のお墓067
キョウ雲環寝域≫
(1874-1926)

【福建省厦門市コロンス島】


「キョウ雲環」は台湾板橋林家系で実業家・教育家として
知られる「林爾嘉」の夫人である。
島内の菽荘家園付近にて眠っている。



【付録画像@】キョウ雲環詩刻
林氏の別荘地であった「菽荘家園」内の岩壁。
1919年に園内の四十四橋が落成した際に詠まれた
もので、洛陽萬安橋記碑からの集字(楷書)である。
と、非常に見づらく申し訳ないが・・・画像内には
三首刻まれていて、中央の赤字が消えかかっていて
落款合わせて4行の七言絶句がそれである。




【付録画像A】コロンス島港
大人気観光地…朝から晩まで旅行者だらけである。
日光岩をはじめ、ピアノ博物館などがあり、
夏には綺麗な砂浜のあるビーチがイモ洗い場に変身する。
洋館の建ち並ぶエリアに入ると「何処の国?」と錯覚する。
また、磨崖石刻(近代)も多くみられるほか、収蔵数が多い
刻字博物館もあるので一息つける。




【付録画像B】 負の遺産
アヘン戦争〜南京条約〜共同租界〜太平洋戦争・・・
厦門付近には砲台跡やトーチカが数多く残されている。
島内のビーチ付近ではトーチカの上に貝殻細工などの
土産物を並べて商売している姿も見られた。

観光地化されている厦門の「胡里山砲台」は
まるで「ナバロンの要塞(←映画参照)」である。


   

〜2013.6.3
中国のお墓068
瞿鴻機墓≫
(1850-1918)

【浙江省杭州市】


“ ク コウキ ”…湖南善化(長沙)のひと。清末光緒年間、
軍機大臣、政務大臣などを歴任した人物。
【翰林院】編修にも就いていたことや詩も幾首か
残している為、文化人としての顔も。
辛亥革命後、上海に逃れその後病死。
【翰林院】…勅書の起草〜国史の編纂などの担当役所。



【付録画像@】乾隆詩碑残碑
瞿鴻機墓は中国十大古刹のひとつ「霊陰寺」西側の
「永福寺」境内にある。霊陰寺は杭州を訪れたひとは必ず
立ち寄る名刹であるが、「永福寺」および更に高峰にある
「韜光寺」まで足を運ぶ観光客は殆どいない。
画像の残碑には乾隆帝が1760年頃、この地を遊覧した
際に詠んだ五言詩/七言詩が刻まれている。(韜光寺)




【付録画像A】大布袋弥勒佛(2011年撮影)

東晋(326)創建の「霊陰寺」には
「飛来峰造像景区(飛来峰=霊鷲峰)」がある。五代〜
元までの500年間に造られた石刻芸術を拝める。
画像の布袋弥勒佛は10世紀頃のもので、
この石造群の代名詞的石刻である。
数年前〜落石と足場崩落が起こり、近寄れなくなった。
※現在は分かりません。(右下画像は2004年時)




【付録画像B】北高峰
「霊陰寺」後方に聳える頂で杭州市内が一望出来る(ハズ)。
※幾度か訪れているのだが毎回モヤっている。
少し前までは山道をクネクネと登らねばならなかったが、
今はロープウェーで数分だ。画像中央の碑亭には
毛沢東詩碑が置かれている。ロープウェー駅の待合室には
毛沢東が訪れた際の写真が沢山飾られている。
ここから北側へ山を下ると立派な法華寺や東岳廟がある。
その道「西馬路」にはのら犬が沢山いるので要注意!

    
 

〜2013.1.1
中国のお墓063
≪張憲墓≫
(?-1142)

【浙江省杭州市】


杭州西湖北西の湖畔に静かに眠っている。
彼は抗金名将岳飛の側近中の側近。
1142年、秦檜の企てにより岳飛、岳雲そして
張憲も罪を着せられ誅殺されてしまう。
のちに冤罪が晴れて岳飛らと共に英雄(※)となる。
墓碑の前にデーンと転がっているものは
「明正徳重建張憲祠碑(残碑)」である。
(※)角度によっては様々な意見有り




【付録画像@】杭州海華大酒店
杭州ラマダプラザです。
西湖から徒歩数分にあります。(湖の東側)
毎週日曜日の朝、ここのロビーから
西湖一周の散歩がはじまります。
【西湖友好散歩倶楽部】
日本からの留学生や駐在者、中国の学生さんや
社会人さん等々・・・朝の澄んだ空気の中、
壮麗な景色を見ながら歩かれています。
私も昨年12月18日に飛び入り参加をさせて
もらいました。とても気持ちよかったです。




【付録画像A】西湖夜景
昨年世界遺産となった西湖。湖畔の整備も進み、
夜間でも遊歩道には灯りが燈り気軽に散策が出来る。
湖上では画像のような噴水演舞が披露され、
一度は聞いたことがある?「山外山、楼外楼〜」
の歌詞がとてもとても印象的な曲『人間西湖』が
大音量で流れている。

   

〜2013.2.6
中国のお墓064
銭鏐墓≫
(852-932)

【浙江省臨安市】


銭鏐(センリュウ)・・・唐と北宋の間、
907年から960年の五代十国期、「前蜀」や
「楚」と並ぶ『十国』の中の「呉越」国の創建者。
黄巣の乱期を生き抜いた武人としての印象が強いが、
在位中は治水や農政に尽力したことでも知られている。

省都杭州から西へ車で1時間ほど行くと臨安(旧安国)
という地方都市があり、中心部に近い丘に眠っている。
小国の王陵にも関わらず、宋代〜元明清民国期と、
歴代王朝および銭氏一族によって保護されてきた。
江南随一の保存状態の良い陵墓として知られている。




【付録画像@】鶏血石
臨安市を更に西に行ったところに昌化鎮がある。
「鶏血石」は中国国内幾か所かで産出されてきたが、
一般にはここの「昌化鶏血石」を指すことが多い。
臨安市内にも多くの店舗があり、品揃えが豊富だ。
なんちゃって鶏血石から素晴らしいものまで・・・
機会があったら産地臨安にてお求めくださいませ!




【付録画像A】市場
臨安市内の錦城小商品市場内の様子。
90年代の北京秀水市場にソックリである。
この隣の巨大な建物内には生鮮食品市場があり、
肉、魚、亀〜野菜などあらゆる食品が並んでいる。
(2011.12撮影)

   

〜2013.3.1
中国のお墓065
杜陵≫
(前73-前49)

【陝西省西安市】


前漢(前206-後8)第九代皇帝宣帝の陵墓。
宣帝は武帝(七代皇帝)の曾孫にあたる。
宣帝は内政重視であったが、他勢力への警戒も
怠らず漢中興の祖とも呼ばれた名君であった。

『霍一族』(←そのうち墓を紹介します)を絡めて
紹介しようと思いましたが話が長くなり
そうですのでまたの機会に。





【付録画像@】三門峡
2013年2月1日、爆竹や花火を積んだトラックが爆発し
高架橋が崩落した事故現場の近くです。
この画像は西安方面(西)から洛陽方面(東)へ走って
いるときのもの。2〜3分走ると三門峡西ICです。
すぐ左側に黄河が流れています。

上記画像をご覧
いただけたかたより
「そこじゃぁ離れてる」
と御叱りを受けました。
改めて・・・
左画像は現場付近の
ICです。(ベン池県駅)
少し東が現場です。
↑ベン池/義馬付近の仰韶遺跡を訪れた際の画像(2000年)




【付録画像A】三門峡火車駅
三門峡の鉄道駅。
北京に住んでいた90年代に、
「黄河砂漠を馬で探検」なる記事を何かで見つけて
この地を訪れたことがある。西周墓地群を抜けて
黄河に出ると砂丘が広がっている。綺麗な砂漠とは
言えないがワクワクする場所だ。時間単位で馬を貸して
くれてあとは自由。黄河沿いをひたすら闊歩するだけの
ものだが誰もいない場所での乗馬は面白かった。
※画像は2005年2月





【付録画像B】三門峡汽車駅
こちらはバスターミナル。私はバス派である。
名もない墓地にたどり着くには地元民の話が参考になる。
鉄道は途中下車が出来ないがバスはすぐに降りられる。
(画像のような高速道路利用のバスは停まってくれない)
河南省は今でも殷周春秋期の墓地が発見発掘
されているので近いうちにまた訪れることだろう!
※付録画像…杜陵に関係なくスミマセン

 
 

〜2012.10.5
中国のお墓060

≪馬相伯墓≫
(1840-1939)

【上海市】


江蘇省鎮江丹徒出身の著名な教育家で天主教神父。
相伯は字。原名は建常、改名後は良と名乗っていた。
数々の教育機関の創設に携わり、1905年には復旦公学
(のちの復旦大学)の初代校長に。そのときには弟子である
于右任を招き芸術方面の教育にも尽力した。

袁世凱時代には北京大学の校長も務めている。
天主教公墓内に埋葬されていたが、文革期に破壊され
現在は宋慶齢陵園(万国公墓)内に眠っている。
故居は江蘇、上海に数か所残されている。






【付録画像】
上:鎮江駅 2003.4
下:鎮江駅 2009.9

馬相伯出生地の「丹徒」や六朝石刻で有名な「丹陽」を
抱える江蘇省鎮江市。(南京の東側)
※丹徒にも丹陽にも馬相伯の故居あり

鎮江は数々の旧跡があるので数年おきに訪れている。
ライフワークであった門票蒐集をしていたときに
出会った友人もこの辺りに多い。
特に…「鎮江旅游門票博物館」館長の湯さんだ。
※門票とは入場券のこと

湯さんはエリート官僚の道を歩んでいたが、幼少の
頃からの夢をかたちにと…自宅を改装し博物館に。
北京や南京などで出張展示なども頻繁に行っていた。
熱血学習塾の塾長でもある。
ただ、、、趣味を仕事にするのは難しいことから、
彼の友人は『もったいない!』と口を揃えていた。

当時(10年以上前)から比べると現在は免票(入場無料)
になってしまった観光地(博物館など)が多く・・・
廃番票などは貴重な資料になりつつある。

そんな私も10年ほど前に『中国旅游門票百科』なる
愚誌を出版。現在、手元にある数万枚の新旧門票が
将来価値あるものになることを願っている。

※上述の冊子…興味のあるかたに差し上げますので
ご注文の際に「本ちょうだい!」とご記入ください。
遠慮なくどうぞ!(お代は不要です)
お品物に同梱させていただきます。
注意:普通のひとは
秒で飽きます!!

   

〜2012.11.4
中国のお墓061

≪蔡襄墓≫
(1012-1067)

【福建省仙游県楓亭】


宋四大家のひとり(異説有)。他は蘇軾・黄庭堅・米フツ。
王羲之〜顔真卿をよく学び伝統書風を重んじた人物だ。
最も有名な「自書誌帖」は故宮博物院にある。
他には洛陽橋袂の
蔡襄祠にある萬安橋記(碑)など。
書家や政治家としての顔のほか、「茶」研究の分野でも
知られている。撰写「茶録」は陸羽「茶経」と並び有名。

他の文物単位同様・・・この陵園も閑散としていて、
鍵を開けてもらっての入場であった。
管理人さんも久しぶりの訪問者だからか、、、
とても親切に説明してくれた。

お茶を入れてもらい飲んでいると、奥から横断幕を
取り出してきて(熱烈歓迎のやつ)、
沖縄から訪問団が来たときのことを話してくれた。
蔡襄の子孫『蔡』姓が沖縄に多く
住んでいて、その方たちが訪れたのだと。
現知事の仲井真さんも元を辿ると蔡氏とのこと。

前述の「異説有」とは・・・四大家は蔡襄ではなく
彼の従孫(じゅうそん)にあたる蔡京を入れことも。




【付録画像@】洛陽橋(萬安橋)
蔡襄が泉州知州の際、6年以上の歳月をかけ建造。
北京:盧溝橋/広東:広済橋/河北:趙州橋と
並び中国四大古橋と称されている。
蔡襄墓からは30qほどの距離。
現在の長さは731.29m。東の袂には大きな蔡襄像有り。
この近くにはもう一つ有名な古橋「安平橋」がある。





【付録画像A】摩岩石刻「萬古安ラン」
洛陽橋の中亭には歴代碑刻が10基ほど置かれている。
その裏手では岩に彫られた摩岩石刻が拝める。
中でも有名なものがこの「萬古安ラン」。宋代石刻だ。
岩の上を見てほしい。若者がいちゃついている。。。
彼らが写真に入らぬよう角度を変えて頑張ってみたが
無理であった。邪魔をしないよう…その場をあとにした。





【付録画像B】福建省甫田市内
蔡襄墓への玄関口甫田。
地方都市・・・夕方の風景だ。


   

〜2012.12.2
中国のお墓062

≪孔鯉墓≫
(前532-前483)

【山東省曲阜】


曲阜市内北部の広大な孔林内、
孔子墓のすぐ傍にこの墓が置かれている。
孔鯉は孔子の長男である。(二十歳のときの子)
墓碑銘「泗水候墓」碑文は明代書家の黄養正の筆。
孔一族が眠るこの孔林内には他に
李東陽や何紹基、康有為など歴代文人による
碑文が拝める。是非時間をかけて廻りたいところだ。





【付録画像@】子貢手植楷碑
今では「学問の木」とも云われる楷の木、
(楷樹=ウルシ科の落葉高木)
孔子が亡くなったのち、弟子たちが方々より
樹木を持ち寄って墓台周辺に植えた。高弟「子貢」は
その後も墓守をし、楷の木を植えたという。
本物かどうかは定かではないが『子貢手植楷』
とされる最後の枯木が残されている(画像内右)
20世紀に入り、日本にもこの楷の木が持ち込まれ
足利学校や湯島聖堂、各大学などに植樹された。
ちなみに孔鯉は父孔子よりも先に亡くなっている。




【付録画像A】曲阜汽車駅
汽車駅とはバスターミナルのことである。
大きな都市(曲阜も然り)では設備のよいところが
多くなった。蜘蛛の巣のような高速道路の開通にて
移動もスムーズである。




【付録画像B】漢魏碑刻陳列館
曲阜へ来たらココは絶対に行きましょう!
どんな碑があるかはこちらをご覧ください。



 
 

〜2012.7.1
中国のお墓057

≪鄭公壹号大墓(鄭王陵)≫
(春秋)

【河南省新鄭市】


全国には無数の春秋期墓が点在しているが、
ここほど大規模且つ密なものは他には無い。
墓長6m超の大型墓が180座、20m超の王墓級特大墓が
4座あり、大小3000以上もの墓坑や車馬坑が
これまでに発見発掘展示(一部)されている。
春秋期(2700年ほど前)の鄭国には22位の国君が
いたが、そのうち21位がこの地に眠っている。
本格的な発掘調査は2000年以降になってからで、
今後も調査が続くとのこと。



【付録画像】

左上:鄭王陵全景
左下:中華姓氏墻

右上:遊楽園廃墟
右下:墓地探索図

【鄭王陵全景】
鄭王陵は安陽の『殷墟』に匹敵するほどの規模
且つ展示具合も良いのだが訪問者は皆無である。
【中華姓氏墻】
黄帝故里付近にあった刻壁。中国人全体の95.8%を
網羅する3000もの姓が刻まれている。ちなみに
129の姓だけで87.5%を占めているそうだ。
【遊楽園廃墟】
90年代に廃業した遊園地がそのまま残されていた。
奇妙な遊具もあり面白い場所だ。
【墓地探索図】
有名どころではない文人墓などを見つける場合は
ひたすら地元のひとに聞くことから始まる。
そのうち親切なおじちゃんが必ず出現する!


   

〜2012.8.3
中国のお墓058

≪周信芳墓≫
(1895-1975)

【上海市】


浙江省慈溪人。京劇一家に生まれ、7歳で初舞台。
京劇大師の梅蘭芳とは同世代である。
主に北京や天津にて活躍。華東戯曲研究院院長や
上海京劇院院長を歴任。
今は宋慶齢陵園(万国公墓)内に眠っている。







【付録画像】
今回は『泉』をご紹介!実は湧水マニアでもあり。。。

上:黒虎泉(山東省済南)
中:珍珠泉(江蘇省南京)
下:龍井(浙江省杭州)


【黒虎泉】
「泉の都」山東省済南の四大名泉のひとつ。
72名泉を制覇しようと試みたが、新旧やらなにやら
途方もない数の泉があり・・・現在100箇所程度で
頓挫してしまっております。
【珍珠泉】
南京市内から長江を渡った西のほうにある。
中国津々浦々にある珍珠泉のひとつだが、
敷地内に偽長城もあるので訪れるひとも多い。
【龍井】
杭州四大名泉のひとつ。言わずと知れた
龍井茶の龍井である。グルグルかき混ぜると
龍が現れる。・・・らしいが見えたことはない。


◆済南の名泉…補足@◆
一言に72名泉と言いましても下記のようなものが・・・
・金代名泉碑所記72名泉
・明代晏璧作泉詩72名泉
・清代カク植恭泉記72名泉
・済南新72名泉
現在、済南老城区内には135箇所の名泉があり、
済南市轄区だと733箇所となる。
何処々々の泉が“枯れた湧いた”という騒ぎが
多くの媒体で報道されるほど済南は泉の都なのである。
北京上海とは異なる景観を味わいに訪れてみてください!





◆済南の名泉…補足A◆

済南名泉を訪ね歩くと明清碑に多く出会える。
この画像は『舜井』。この名泉の歴史は北魏に遡り、
以後、欧陽修や蘇徹などが好んで題材にしている。
近くに画像右の『舜祠迎祥宮碑(元)』が置かれている。
済南名泉傍碑でも最も古い碑のひとつである。

で、話はここから!

私が最後に訪れたのが2006年11月(画像撮影日)。
画像では分かりづらいがゴチャゴチャした街並みの
中に溶け込んでいた。その後大規模な区画整備が
行われ・・・昨年(2011年)10月、工事中に上記元碑から
50mほどの土中より古代碑片が発見された。
1.6mの碑首をもつその残碑からは年代は分からず
専門家が鑑定を進めている。

遥か昔、この辺りに舜廟(祠)が置かれていたが明代に
焼失してしまっている。そのときの遺物ではとも。。
ここに限らず中国では今でも毎年星の数ほどの
貴重な文物が出土している。
「発掘調査時」よりも「工事中に見つけた」という
話のほうが多いのは気のせいかな?
★今回は「付録」が長くなり申し訳ございません。。。


   

〜2012.9.6
中国のお墓059

≪文種墓≫
(?-前472)

【浙江省紹興市府山】


春秋末期を闊歩した策士。越国勾践の謀臣である。
范蠡(ハンレイ)の影に隠れがちだがなかなかの曲者で、
文種なくしては『臥薪嘗胆』の言葉が生まれなかったかも。







【付録画像】
上:水郷紹興の府山近く
下:越国遺跡内越王殿の画図


 
 

〜2012.4.1
中国のお墓054

≪趙之謙墓址≫
(1829-1884)

【浙江省杭州市西湖畔】

ご存知!…紹興出身の清末書画篆刻の大家です。
金石学に傾倒されていたあたり…大好きな文人です!
さて・・・「墓址」?、、、これはどういうことなのでしょうか?
江西にて亡くなったのち、友人らの手によって
浙江に戻り、杭州西湖畔に埋葬された。
現在は遊歩道や周辺道路の整備もされ、歩きでも車でも
容易にこの辺りを闊歩出来るが、当時は獣道を進むか
船に乗ってでの難参拝であったという。

『趙之謙墓』は1956年に省級文物保護単位に登録される。
翌年、付近一帯に丁家山西山路が建設され、
墓園の一部が破壊されてしまうが、墓台は残されていた。
しかし58年、省外の民工による西山路整備工事の際に
墓は姿を消してしまった。重点認識が無かったのだろう。

昔は立派な墓台に二基の石柱が聳えていたそうです。
子孫のかたが写真を保管されていたそうですが、
文革期の混乱の中、消失してしまったようです。
現在は「この辺り」という場所に記念碑(画像)が置かれ、
すぐ近くの湖畔には趙之謙記念亭が建てられている。

★みなさんへ★
もし当時の写真をお持ちの方がおられましたら…
是非ご連絡(見せて)ください!





【付録画像】
市街地の路線バス車内です。
車掌さんのいるバスは少なくなりました。
ワンマンバスが増えてきた2000年頃から、
1元・2元運賃が普通となり、
1元硬貨が急速に普及し始めました。
今ではICカード(公共交通カード)ですね。
ヨレヨレの1元札が懐かしい今日この頃。。。


   

〜2012.5.3
中国のお墓055

≪欧陽修墓≫
(1007-1072)

【河南省新鄭市辛店鎮欧陽寺村】


吉州(現江西省吉安)出身の『唐宋八大家』のひとり。
≪修=脩≫ 八大家とは・・・(唐:韓愈/柳宗元、
宋:欧陽脩/蘇洵/蘇軾/蘇轍/曾鞏/王安石)
文人としての面が強烈だが、先輩である包拯(999-1062)
には及ばないものの政治家としても才能を発揮している。
墓台の西側には地繋ぎの夫人薛氏墓台がある。

昨年(2011年)秋に書簡96篇が日本で発見された報道は
記憶に新しいが・・・なんと言っても「醉(酔)翁亭記」!
403字詩・・・気概のある人は是非どうぞ!
鑑賞には台湾故宮博物院の文徴明(明)書の
「醉翁亭記」をお勧めしたい。





【付録画像】
河南省省都鄭州から40キロほど南下すると新鄭である。
大規模な古城壁の残る街だ。
(興味のあるひとはコチラの「鄭韓故城」を見てください)
もう少し南へ行くと三国志でもお馴染みの許昌、
西へ行くと少林寺方面といった場所。
前々から見たかった中国最古の石碑がこの時の目的。
その石碑を拝むまで時間が出来たので欧陽修墓へ。

どんな墓なのか調べていなかったので、新鄭市の文物局と
旅游局へ遊びがてら顔を出す。(左上画像:旅游局)
管理人が居ないときがあるとのことなので前もって連絡を
お願いし、乗合バスにて欧陽寺村へ(画像右上)

1時間ほどかかり到着。やはり門は硬く閉ざされている。
「開門!」…弩でかい声で叫ぶが誰も現れない。
通りかかった人も加わり「開門!」
30分ほどが経ちバイクに乗って管理人が現れる。
山門、内門と開錠して墓園へ。貸切のようで気分もいい!


   

〜2012.6.3
中国のお墓056

≪明皇陵≫
(1344)

【安徽省鳳陽県】


明太祖朱元璋の父母の陵墓。
<父:朱世珍(仁祖淳皇帝) 母:陳氏(淳皇后)>
広大な墓園の神道(257m)には32対の石象が置かれ、
朱元璋撰の皇陵碑(6.87m)には自らの生い立ちから
明王朝開創の歴程などが刻まれている。【1105字】
相同対碑であるもう一基は「無字碑」。様々な謂れがあるが、
『父母の功徳を刻むべきところ、徳が高すぎて言葉に出来ず…
また、農民出身の父母は大業を行ったわけでもなく。。。』
という理由からだそうだ。
画像奥の現存墓台は東西60m南北40mの楕円墳。





【付録画像】
鳳陽県は地方都市独特の風情のある街だ。
濠州と呼ばれた元代までは鄙びた農村であったが、
朱元璋故郷のこの地に明中都が築かれてから発展した。

左上:龍興古刹
左下:明中都皇城
遺蹟
右上:明中都鼓楼
右下:鳳陽汽車駅

2007年にAAA級旅游区に批准されるにあたり、
城内中心部の開発が進み特に鼓楼付近は昔の
面影は消え、観光客を迎える街並みへと変貌した。
画像(右上)は2005年、工事に入る直前の殺風景なとき。

鳳陽を散策したのち、バス(右下)に乗り徐州方面へ(北)、
項羽と劉邦の『垓下の戦い』跡地へ赴こうと考えていたが、
抜き打ちの車両一斉検査が行われてしまい・・・
その日はバスが動かず。。。未だに未到達です。
タクシーで行けばすぐなのですが。。。。

 
 

〜2012.1.1
中国のお墓051

≪虎丘剣池闔閭墓≫
(春秋)

【江蘇省蘇州市虎丘】

春秋期紀元前5世紀頃の呉六代王「闔閭」のお墓。
伍子胥や孫武、夫差といった名をあげると時代が
お分かりいただけるかと。
故事成語『臥薪嘗胆』とは、越に敗れた際の傷がもとで
闔閭が亡くなり、後を継いだ次男「夫差」が越王「勾践」を
破るまでの数年におよぶ屈辱と、その後の戦いにて
敗れた「勾践」の心理をうまく表した詞である。
と、、、「闔閭はこの池の下に眠っているとのこと。



【付録画像】
剣池手前のこの四字「虎丘剣池」はご存知唐代書家の
「顔真卿」の筆によるもの。しかし…左払いの運筆等から
『真劍池、假虎丘』(本物の剣池、偽の虎丘)とも。
もっとも、現在目にしているこの虎丘は
明万歴年間に大きく手を入れたらしいので・・・。
最後に、一枚目(セピア色)の剣池画像をご覧ください。
崖壁左下の篆書二字「剣池」は、いつしか王羲之書とも
言われていますが、これは元代書家の「周伯g」筆。
虎丘には他にも歴代書家の石刻が見られるので
機会があったら蘇州寒山寺とともに訪れてみてください。


   

〜2012.2.4
中国のお墓052

≪明十三陵/裕陵≫
(明英宗墓)

【北京市昌平区】

明6代/8代皇帝英宗とその皇后「銭氏」「周氏」の合葬墓。
9歳にて即位した英宗。社会経済の発展期でもあり、
国家は安泰していた。国が豊かになると、
内面から黒雲がたちこめる…いつの世も同じである。
宦官の王振の悪意が発端となり起こった「土木の変」。
北方部族(オイラト)の捕虜となった英宗であったが、
「奪門の変」にて再び皇帝の座に返り咲く。
前後して22年間の在位。
明代は初期と晩期の歴史に目が行きがちだが、
このあたりも実に興味深い。



【付録画像】
裕陵の神功聖徳碑から南側に続く裕陵神路の画像。
数少ない修復以前の状態を保つ陵墓である。
明十三陵は『定陵』『長陵』『昭陵』が一般公開されている。
観光ツアーでは『定陵』、『長陵』/『長陵神道石刻』を巡る
場合が多いが、他の陵墓を廻ることは殆どない。
明代皇帝陵墓は「十八陵」あり、祖陵(江蘇省)/
皇陵(安徽省)/孝陵(江蘇省)/顕陵(湖北省)を
除いた14陵が北京郊外にある。
「土木の変」収束後に兄の前皇帝(後皇帝でもある)英宗を
軟禁した七代皇帝代宗(景泰帝)=『景泰陵』のみ十三陵と
離れた頤和園近くの金山に小規模に埋葬されている。


   

〜2012.3.3
中国のお墓053

≪牛皋墓≫
(1087-1147)

【浙江省杭州市宝石山】

2011年6月、ユネスコの第35回世界遺産委員会にて
杭州『西湖』の文化景観が世界遺産として登録されました。
(※これで中国は41箇所に! ちなみに日本は16箇所)
その湖畔に築かれた岳廟に「岳飛」が眠り、その岳廟を
見下ろす(実際は見えない)高台に「牛皋」が眠っている。

牛皋は汝州魯山のひと(現河南省魯山)。
抗金の名将岳飛に従い、しばしば戦功をあげる。
三国志でいうところの張飛的存在かな。
悪役「秦檜」の命により、前後して岳飛も牛皋も
毒殺されてしまう。岳飛と共に『民族英雄』である。



【付録画像】
上述文言の流れから、西湖画を添付しようと思いましたが、
在り来りの湖写真になってしまいますので・・・
(※このページ内最上部の夕焼け画像が西湖です)
杭州の名物料理をご紹介!

中国八大料理のひとつ「杭州料理」は日本人に好まれる
素材や味付けが多い。有名どころは・・・
蘇東波の愛した豚の角煮「東波肉(画像右上)」、
龍井茶とむき海老を炒めた高級料理「龍井蝦仁(左上)」、
他には「杭州小龍包」やジュン菜を使用した料理など。

で・・・・このラーメンのようなものはなんでしょう??
正解は「片儿川面」!
東北の小麦粉を使い、豚肉片と筍、雪菜が入った
独特の味がする「風味小吃」です。
有名どころの「楼外楼」、「天外天」、「山外山」での食事も
良いですが一般食堂(画像品)もおいしいですよ!
余談:ひとりで中国での食事は非常に寂しいです。

 




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