中国石刻大全
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当該ページの最終更新日=2017.1.3





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〜中国の石碑や石刻をみてみよう〜
石碑マニアのバイブルを目指し・・・


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2013年・・・【 失敗編 】

11月〜12月にかけて、四川省を闊歩してまいりました。
通常出張業務のほか、幾つか目的がありまして・・・
先ずは失敗編をご紹介!

3年前の2010年11月、成都市中心部にある
「天府広場(ほんとに中心です)」の西側工事現場から
大小2基の漢碑が出土しました。
大きなほうは元嘉二年<152年>の「裴君碑」(裴岑)、
小さなほうは陽嘉二年<133年>の「李君碑」(李膺)。
※李君碑は146年に重刻。どちらも顕彰碑とされる。
共に陰面刻の人物名が多数刻されていて特異碑だ。

まだ公開されていなく、保管場所も不明。
是非、実物を見てみたいと思ったわけです。
例のごとく・・・予めどこにも依頼等はせず、
辿り着けるか歩き始める。。。
(※接待等されるのが大嫌いな為、、、
というよりも『ツマラナイから!』です。)

先ずは王道の四川省博物院へ。
ここの「漢代陶石館」内には、1966年出土の
『簿書石碑(東漢)』があり、見応えがある。
見学後、中二階にある工作室の扉を叩き・・・
「裴君碑/李君碑」の在り処を聞く。

工作室は幾つもあったが全て「知らん!」との回答。
そもそも研究員らしき人物が皆、不在であった。
受付で館長さんは居るかと聞いてもみたが「おらん!」
駄目もとで受付嬢に石碑のことも聞いてみたが
相手にもしてくれなかった。


簿書石碑

次に成都市博物院へ。
中心部から少し東へ行ったところに「大慈寺」という
玄奘ゆかりの古刹があり、その一角に館がある。
はず・・・・であったが、訪れてみると巨大な鉄板壁に
寺全てが囲われてしまっている。
大規模修繕工事が始まっているいるようだ。

作業員通路から許可を得て境内へ。
工事の轟音鳴り響く中、展示室らしき館へ向かう。
誰もいないどころか何もない。
一般作業員ではなく、責任者らしき人物や
寺院関係者に話を聞くも、情報はなにも得られず。
足元(靴)がコンクリートで固まってしまう前に
寺をあとにする。


大慈寺

お次は四川大学へ。
大慈寺からは南へ3qほどの距離である。
考古学専門の研究室へ辿り着ければなんとかなる
という浅はかな思いをもって訪れたが・・・
既に暗くなりかけていた上、付近のバスケットボール場
にて足がとまってしまい、見物していたら真っ暗に
なってしまった。情報を得るどころか何しに行ったのか
も分からず仕舞い。。。
※・・・私はバスケットが趣味でして・・・。


バスケットボールコート

気を取り直して別の日・・・成都文物考古研究所へ。
中心部から西へ行った位置にある。
成都ほどの大都市だと、守衛所の通過すら厳しいが、
運よく研究室へ電話を入れてくれた。
数分後、お偉いさんが登場!
守衛のオッチャンは親切にも通訳?をしてくれて、
拙い中国語で同じことを話す面倒が省けた。
「良く来た!」と言わんばかりに研究室へ招かれて
挨拶もそこそこ、すぐに例の石碑が保管されている
部署へ電話を入れてくれた。

・・・が、話の内容が悪いほうへ、、、
「アポあるのか?」「そいつは誰だ?」
「どうする?なんとかならないか?」
等のやりとりが続き・・・
結果、先方は面倒を避けたいのだろう、
「鍵もってる奴が居ないのでダメ!」と、
回答が作られたようだ。

電話のあと、「会話(電話の)は聞き取れるのか?」
と私に聞いてきた。「だいたい・・・」と言うと・・・
とても申し訳なさそうに謝ってくれた。
(実はそれほど聞き取れていない。。。)
いえいえ、突然訪ねた私が悪いのです!
ごめんなさい!
(薄汚い不審な奴が来たら追い返すのが当然!)
まぁ、石碑までは辿り着けなかったが
守衛のおっちゃんと室長さんに感謝です。


考古研究室

二基の石碑が発見された場所は
偶然にも「成都博物院新館」辺りの工事現場で、
その新館は2014年10月に開館するとのこと。
その館内石刻芸術室(仮称)に展示される予定。
北京の首都博物館も昔は孔子廟内にあったが、
今では巨大な新館が別の場所にあり…同種だ。。


出土した工事現場(2013年12月3日現在)



 
2013年・・・【 成功編 】

成功編とはいささか大げさですが・・・
うまく事が運んだ例としてご紹介。

2010年9月、成都市内南北を走る地鉄1号線が
開通した。現在は東西方向の2号線と合わせ
成都市民の足となっている。
3号線/4号線/7号線の工事も真っ最中!
市内の移動はますます便利になりつつある。
※地鉄=地下鉄

成都市東部の龍泉驛区山泉鎮大佛岩という
山間部に南北朝最早期の石碑がある。
白黒写真でしかみたことがなかったが、
いまにも崩れそうな巨石に刻されている。
その石碑は「北周文王碑」という。
壮麗さが印象的であったので実物を
見てみたくなった。

ある日の午後・・・
時間的余裕がなかった為、邪道とは思いつつ…
市内からタクシーで向かおうと試みる。片道50q。
7〜8台と交渉するも乗車拒否。
1000元(=18000円)なら行くという運ちゃんも
いたが、今年は為替レートが悪いうえ
高額すぎる。往復4〜500元が妥当な距離である。
何も進展せず路上で無駄な時間が過ぎてゆく・・・
その日は諦めて後日、公共交通を
駆使して向かうことにした。
〜毎度、無計画だとこんな感じです〜


地鉄(地下鉄)四号線工事現場

早朝出発。地鉄2号線で東の終点まで向かう。
2号線は現在も延伸中で完成すれば今回の
目的地である龍泉驛区の入り口まで行ける。
残念ながら今は遥か手前の「行政学院駅」と
いうところまで。

綺麗な車内でくつろいでいると途中駅に
「恵王陵」という文字が見えた。
『陵』という文字に反応しすぐに下車。
持参した考古や旅游指南書を捲ると、
この付近に「廖家湾明蜀王陵
」、
いわゆる「明十陵」のひとつがあるという。

「明十陵」とは、明太祖朱元璋の家族墓で、
蜀王墓や陪葬墓が20基ほど点在している。
発掘調査が完了している「僖王陵」や「昭王陵」
からは兵馬俑や華麗な埋葬品が出土している。
墓の多くは「十陵森林公園」という整備された
敷地にあり、博物館も併設されている。

その公園からは少し離れた距離にあり・・・
この「恵王陵」は盲点で知らなかった。
墓マニアとしては恥ずかしい限りである。

駅をあとにして「華龍路」を北上し、
「恵王陵東路」に入り東へ・・・30分も歩けば
到達するかと思いきや、周辺には何もない。
そのうち別の村へ入ってしまった。
地名的には路の北側なので、北側へ入れそうな
場所を探しながら元来た路を引き返す。
10分ほど戻ったところで建物が途切れ
北上できそうな場所をみつけた。

緑の少ない畑の中を北へ進む。
途中で農作業をしているひとに聞きながら。
で、到達した墓は「コレ↓」でした。
墓台中腹に文物碑があるので間違いなし。
暫し佇み歴史を感じ・・・また地鉄駅へと戻る。


廖家湾明蜀王陵

再び地鉄2号線に乗り終点の「行政学院駅」へ。
その後854路バスに乗り「龍泉汽車総駅」へ。
そのバスターミナルが始発で、目的地方面に
向かうであろう・・・870路バスに乗る。
雑踏する龍泉驛区中心部を抜けるとすぐに
山間の道となる。

周辺は「桃花溝風景区」や「桃花故里風景区」
といった風光明媚な避暑地として知られ、
果樹園やバーベキュー施設などが目につく。
驚いたのはサイクリングを楽しむ人の多さ。
30mに1人間隔で走っている。
更に彼らが跨るのは1台数十万円もする
ジャイアント(ブランド)が殆どである。
自転車には詳しくないが「本物」だと思う。
早朝は氷点下のこの時期でもこの人数なので
春〜秋は渋滞が起こりそうだ。

バスの運ちゃんからは情報を得られず、
「山泉鎮」バス停にて下車し、
その辺のひとに石碑の在り処を聞く。
「お前は何しに来たんだ?」と不思議そう
だが、「書道に興味がある」と答えると
皆、納得してくれた。

石碑はバス停あと3個ほどの場所と分かり
次のバスを待ち乗り込む。
言われた通り3個目「31公里」バス停で下車。
※バス停は「30公里」と表示されている。
う〜ん、何もない。誰もいない。
先ほどまで煩わしかった自転車野郎も
いなくなっている。


バス路線870路の『30公里』バス停

パシャパシャと写真を撮りながら進むと、
白く威厳のある立て看板が視界に入った。
「軍区」だ。
周辺に通信施設でもあるのだろう。
気を付けながら先に進む。
ポツポツと現れる地元民に聞きながら、
もうひとつ先のバス停「大佛村」付近へ。
成都からくると右側に桃園の中へ続く
細く舗装された道が見えた。
入り口には標はない。

100mほどクネクネとしたその道を進むと
右手(軍区側)に「柳溝舗戦址」がある。
1922〜23年頃、北洋軍閥と国賊との砲撃戦が
繰り広げられた地だ。(後で調べた)
車だと脱輪するであろう幅のその道を
さらに登ると少し開けた場所に、
古びているが立派な祠が現れる。
傍らには「北周文王碑」の文物碑もある。


管理人のおばちゃん

犬と猫と多くのニワトリに出迎えられ祠の中へ。
生活感漂う空間が広がる。
一番奥…「天中天」と書かれた扁額の下に
石像が置かれている。
が、刻字らしきものは見当たらない。
管理人の夫婦に聞くと「奥にあるよ」と、
小さな扉を指さしながら教えてくれた。
南京錠のかかる戸をふたつ開け祠の外へ。

いつか白黒写真で見たそのままの・・・
「なぜここに?」「なぜ斜め?」の巨石が
静寂の中現れた。磨崖石刻なのだが、
碑首(碑額)/碑身(碑陽)/(碑座)亀趺)に
分かれ、紛れもなく「石碑」である。
碑額楷書15行4段と、1400字からなる碑文は
鋭さがあり剛健挺抜。
周辺の唐から五代十国期の石刻も
合わせ、時を忘れて堪能できる空間であった。
※この日の交通費全部で・・・16元


北周文王碑(中央すこし左)








2009.9の旅の目的は幾つかございましたが、
そのうちのひとつをご紹介!黒酢で有名な江蘇省鎮江。
ここへは5度目となりますが、毎度浦島太郎状態です。

長江に浮かぶ焦山には、摩崖石刻や碑林があり、
陸遊・陳安民・賀鋳・米フツ・趙孟奎などの題記が見られます。
もっとも有名なものは六朝時代に刻された「エイ鶴銘」
王羲之の書とも言われる面白い文物です。

宋の時代に落雷に遭い、河の中へ沈んでしまいました。
それから600年ほど経過した清康煕年間に蘇州太守陳鵬年の
捜索からはじまり、乾隆・同治年間に川底から引き揚げられ、
岩石5塊 計88文字を得ていました。(失字等諸説あり)
原銘は170字ほど(一説には167字)とのこと。

2008年6月〜10月に南京博物院と鎮江博物館による大規模な
発掘が行われました。【国家文物局(2008)第284号発掘】
その後の調査で、4石計5文字が新たに発見され・・・
石刻マニアとしては是非、、、
その『石』を見てみたいと思ったのです。。。

画像の石とその拓本を見て何という文字か分かりますか?

銘文中に3度登場するという「鶴」の字だそうです。
陸揚げされた数千の岩の欠片からこれを探し出すのは
とても労力のいる作業ですね!
上の画像はその発掘現場



興味のある方は是非 「焦山碑刻博物館」 へ!
※時期により、南京や北京にて展示されている場合も有






メディア掲載履歴
●2009年4月
【「光文社」さん 写真週刊誌FLASH[フラッシュ]】
ギョウ城三台遺跡画像が掲載されました

●2008年
【「教育図書株式会社」さん】
平成20年度版高等学校教科書指導書
曲阜孔子廟各碑画像が掲載されました

●2006年〜2007年
「天来書院」さんHP内にて、石碑巡りを
題材にした紀行文が連載されました。
第10回まであります。

●2005年
中国で撮影してきた画像(静止画)が
TBSの番組「クイズ!日本語王」内にて使用されました。
石碑の亀の形をした土台
『亀趺(きふ)』の写真です。
日本語の「贔屓(ひいき)」の語源となっています。
■中国の写真をお探しの皆様へ■
使用したい画像がございましたら、
使用目的をお知らせください。
可能な限り喜んで協力致します。
HP掲載画像以外にもお探しのものが
ありましたら遠慮なくお申し付けください。
(※無理なものは無理とハッキリ言います)

連絡はこちらからどうぞ
〜画像や文章の無断使用は厳禁です〜







ろうや台刻石
左は発掘場所の琅や台にある刻石亭。
近くには1994年複製の碑や始皇帝群像が聳えている。
右は刻石複製品。本物は中国国家博物館【旧歴史博物館】にある。
何度も行っているが記憶にはない…。







鉄山摩崖石刻
摩崖石刻といえば東部の「天柱山」や「雲峰山」、「太基山」などが挙げられるが、
山東省中西部にも「葛山」、「崗山」、そして「鉄山」など雄大な仏経摩崖石刻が存在する。
ここは鉄山石刻。一文字は約22pで476文字(原944字)が確認されている。北周期刻。
時間さえあれば『摩崖石刻大全』ページも作製してみたい気持ちはある。







小南海石窟石刻
北斉開窟の石窟。殷墟で知られる河南省安陽からバスで2時間。
山間に彫られた小規模石窟である。石刻の状態はかなりよい。
石像の顔はここも破壊されてしまっている。
ここから山を歩くこと3時間で下の霊泉寺へ辿りつく。







霊泉寺石窟石刻
東魏開窟の石窟寺院。唐代様式の珍しい窟館を見ることができる。
石刻も抱負で唐代に刻まれたものを見ることが出来る。
160歳まで生きた伝説の高僧「呉雲青」の滅びぬ肉体(ミイラ)もこの寺で見ることができる。
「宝山霊泉寺陳列室」では「霊泉寺伝法高僧霊裕法師并序碑」等の宋碑も置かれている。



〜拓本は掛軸に!〜
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第一回日本学生陸上競技対校選手権大会
(日本インカレ陸上ポスター)

1928年5月26日〜27日に東京明治神宮外苑にて
開かれた際の貴重なポスター。【縦76p×横53p】

当時は男子のみ18種目の開催であった。
第一回は陸上の神様「織田幹雄」や
「南部忠平」らを擁する早稲田大学が優勝。